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Vol.10 「イタリアへのオマージュ」 発売

Ombres et Lumières

矢崎彦太郎

パリのサン・ジェルマン大通りとサン・ミッシェル大通りが交差する辺りは、カルティエ・ラタンの中心で、ソルボンヌも近く、毎日、夜遅くまでGパン姿の若者や、大道芸人と、それを取り囲む観光客等で賑わっている。しかし、その喧騒の真只中に、周りのせわしい人と車の動き、早口でまくしたてる学生フランス語の鋭いリズムとは全く異質で、あたかも、時間の流れが止っている様な一角が見受けられる。ユリアヌス帝が造った浴場といわれている、紀元4世紀の遺跡で、現在では、リルケの「マルテの手記」の記述で有名な「婦人と一角獣」というタピスリーがあるクリュニー美術館の庭になっている。鉄柵越しに、サン・ミッシェル大通りから覗けるこの遺跡は、パリがルテティアと呼ばれていたローマ時代に、我々を誘う。辻邦生が「背教者ユリアヌス」を創作する動機になったのも、都会の雑踏の傍で悠久な時を想わせる、この遺跡らしい。

紀元前6世紀のギリシァ文献には、現在のフランスの地に、ケルト人が住んでいるという記録が残っている。後に、ローマ人は、この地方を「ガリア」住民を「ガリア人」と呼び、紀元前120年頃、地中海沿岸地域を征服して、属州「プロウィンキア・ロマーナ」を設置した。これが、「プロヴァンス」という地名の源となっている。ガリア全土制圧は、紀元前58年から51年に、カエサルによって成された。被征服民族を一方的に支配せず、協調しながらコントロールする巧みなローマの政策によって、ガリア文明とローマ文明はよく融合し、ガロ・ロマン文明となった。476年に西ローマが崩壊した後、ゲルマン民族の一つであるフランク族が、ガリアに王国を築くが、文字、言語(ラテン語)、農業、キリスト教、優れた建築技術による整った生活環境をもたらしたガロ・ロマン文明は、今でも、フランス人の心のふる里であり、自分達こそ、ローマ人の子孫であるという意識を、多くのフランス人が潜在的に持っている。

10世紀になって発達した農業は、人口の増加を招き、国力を充実させ、社会的・文化的にも高揚して、教会の改築や再建が行なわれ始めたが、手本になったのは、ローマ建築である。英語でロマネスク美術といわれる Art romanは、フランスでは12世紀前半まで続いた。16世紀のルネサンス期には、フランソワ1世が、レオナルド・ダ・ヴィンチを招いた様に、イタリア美術が大々的に輸入された。17世紀になると、ニコラ・プーサン、クロード・ロランといった画家達が、自らローマに赴く。プーサンの死の翌年、1666年に、ルイ14世は、ローマにフランス・アカデミー(Academie de France a Rome)を設立し、画家、彫刻家をローマに留学させる事を始める。1720年には建築部門が加わった。1803年にヴィラ・メディシスに移り、作曲部門も新設されて、留学生選抜試験をパリの芸術アカデミー(Academie des Beaux-arts)が実施する。ここに、フランスの若い作曲家達の関心の的でもあり、悩みの種ともなった「ローマ大賞」(Grand Prix de Rome)が生まれたのであった。

30才以下に決められた受験者は、フーガ、合唱曲を作曲する予選を通過した後、カンタータ作曲の本選に臨む。受賞者は、40ヶ月、ローマのヴィラ・メディシスで過し、1年に最低1作、重要な作品を作曲する事が義務づけられている。歴代の受賞者リストの中には、今夜演奏される作曲家の他に、グノー(1839)、マスネー(1863)、ドビュッシー(1884)、フロラン・シュミット(1900)、デュティユー(1938)等が含まれている。ラヴェルは4回失敗し、1905年の5回目には予選で落ちて、審査員の弟子だけが本選に残ったので、フォーレ、ドビュッシーはラヴェルを支持して、大スキャンダルに発展した。その結果、コンセルヴァトワールの院長であったデュボワが辞任し、フォーレが後任となった。俗に言う「ラヴェル事件」である。ドビュッシーは1回失敗した後受賞して、ローマに留学するが、途中で逃げ出してパリに戻ってしまった。後に、彼の評論集の中で「ローマ大賞は国営スポーツ競技会のようなもの」と批判している。

「ローマ大賞」の功罪については賛否両論あるものの、19〜20世紀のフランス作曲界に多大な影響を及ぼした事実は否定出来ない。

ベルリオーズ(1803-1869)

序曲「ローマの謝肉祭」

昨年、生誕200年の行事が世界中で行なわれたベルリオーズは、グルノーブル近くの小さな田舎町、ル・コート・サンタンドレで生まれた。ナポレオンが皇帝になる前年の事である。当時、この地方は、オーケストラはおろか、ピアノすらも存在しない、極めて貧しい文化環境であった。ベルリオーズは、フルートとギターに触れ、独学で和声の教科書を読んだものの、医学を勉強する為に18才でパリに出て来た時には、持って生まれた音楽的才能と情熱のみで、音楽的知識は無に等しく、音楽家としては全くバランスを欠いた状態であった。当時成功を収めていた、ジャン・フランソワ・ル・シュウールという作曲家と出会い、弟子になって、1826年、ローマ大賞に挑戦するが、フーガを書けずに落選して、コンセルヴァトワールに入学する必要性を自覚する。1827〜29年に毎年落選して、1830年の5回目で受賞したが、この年は、実に「幻想交響曲」が作曲された年であった。

イタリア滞在中は、「幻想」の続編である「レリオ」以外ほとんど作曲せず、1832年パリに早々と引上げてから、イタリアを題材にした作品「イタリアのハロルド」「ベンヴェヌート・チェルリーニ」「ロメオとジュリエット」が生まれた。

16世紀のフィレンツェに実在した彫刻家、ベンヴェヌート・チェルリーニの伝記から作られた台本によるオペラの初演は1838年に行なわれて、失敗に終るが、2幕のフィナーレにあるサルタレロのコーラスをアレグロの主部とし、愛の二重唱を序奏として1844年に編曲された「ローマの謝肉祭」は大好評を博した。

emplacement - maison de collineplat - Berlioz

(写真10-1,2)ベルリオーズが「ベンヴェヌート・チェルリーニ」等を作曲したモンマルトルの 丘の家(10. rue Saint-Denis)は、1925年に建て替えられて、跡地の アパルトマン(道路の右側)にプレートだけが残る。番地も22. rue Mont-Cenis, パリ18区に変更された。

ビゼー(1838-1875)

ローマ

パリに生まれたビゼーは、子供の頃から神童ぶりを発揮して、10才でコンセルヴァトワールに入学し、グノー、アレヴィに師事した。17才で交響曲ハ長調を作曲している。1856年に初めてローマ大賞を受けるが、この年には該当者なしの判定が下り、翌57年に受賞した。「ローマ」はヴィラ・メディシス滞在中の1860年に書き始められ、スケルツォ風な第2楽章は、留学中の義務作品としてパリに送られた。その後、1866年、68年、71年に改訂した形跡がある。1869年には、パリのオルケストゥル・パドゥルー演奏会で、「交響的幻想曲 “ローマの想い出”」(Fantaisie symphonique “Souvenirs de Rome”)というタイトルで、第1楽章「オスティ森の狩」(Une chasse dans la Foret d’Ostie)、第2楽章(現在の第3楽章)「礼拝行列」(Une Procession)、第3楽章 (現在の第4楽章)「ローマの謝肉祭」(Carnaval a Rome)という3楽章構成で演奏された。4つの楽章が揃った形は、ビゼー没後の1880年に初演されたが、その時には、「ローマ」以外のタイトルは、全て削除された。

現在のスコアに残っているのは、次の表情指示だけである。

  1. Andante tranquillo / Allegro agitato(ma non troppo presto) / Andante
  2. Allegretto vivace
  3. Andante molto
  4. Allegro vivacissimo

Appartment Bizet vécuplat - Bizet

(写真10-3,4)ビゼーが1869年から、亡くなる直前まで住んでいたアパルトマン

hall d’entrée - Bizetplafond d’entrée - Bizet

(写真10-5,6)その入口のホール、 及びホールの天井の模様 – 22. rue de Douai, パリ9区

G.シャルパンティエ(1860-1956)

イタリアの印象

ロレーヌ地方、モーゼル県のデューズに生まれ、子供の時移った北フランスのトゥルコワンでは紡績工場で働く等苦学した後、奨学金を得て、1881年にパリ・ コンセルヴァトワールに入学する。最初はヴァイオリンを学んでいたが、1885年、マスネーの作曲科に移って頭角を現わし、1887年にローマ大賞を受賞した。イタリアの風光に魅せられて、直ちに作曲した交響詩「ナポリ」は、義務作品としてパリへ送られて、サン・サーンス等から絶賛された。さらに、4曲を追加作曲して、1890年に「イタリアの印象」を完成。初演は翌91年に、パリのコンセール・ コロンヌ演奏会で行なわれ、大成功をおさめた。1900年に作曲されたオペラ「ルイーズ」と共に、シャルパンティエの2大傑作である。

全体は、次の5曲から構成されている。

  1. セレナード Serenade
  2. 泉のほとりで A la fontaine
  3. ラバに乗って A mules
  4. 山々の頂にて Sur les cimes
  5. ナポリ Napoli

Appartment Charpentier vécutPlat - Charpentier

(写真10-7,8)シャルパンティエが亡くなるまで60年以上住んでいたアパルトマン。道路の奥には、 白いサクレクール寺院が見える。 – 66. boulevard de Rochechouart, パリ18区

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