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Vol.2 「地中海を廻って」 発売

Ombres et Lumières

矢崎彦太郎

ヨーロッパ、アジア、アフリカの3大陸に囲まれた地中海は、東側にエジプト、メソポタミアといった文明発祥地を抱き、黒海を含めれば日本海の約3倍に当たる297万káuの広さを持つ一方、西側の入口であるジブラルタル海峡は、わずか14kmの幅しかなく、まさしく地の中の海である。
ジブラルタル(Gibraltar)の名は比較的新しく、711年にイベリア半島に侵入したイスラム教徒軍の指揮官、ターリク・イブン・ゼヤドにちなみ、アラビア語で「ターリクの山」という意味のジャバル・アル・ターリク(jabal al-Tariq)が訛ったもので、古代のギリシァ人は、英雄ヘラクレスが海をへだてて向かい合うヨーロッパとアフリカに2本の柱を立てたという伝説から、「ヘラクレスの柱」と呼んで地中海世界の境界としていた。

そのギリシァ人と海上交易で覇を競い「海の遊牧民」といわれたフェニキア人は、BC9世紀後半北アフリカにカルタゴを建設したが、3次にわたるローマとのポエニ戦争を経て、BC146年に滅亡した。

ローマが地中海世界を支配したBC2世紀からAD5世紀までは、地中海世界の歴史のなかで政治的統一が存在した唯一の時期である。沿岸は石灰分が多い地質で、大理石は産出してもオリーヴと葡萄以外の農作物がほとんど育たない土地であるのに反して、海面は冬を除いておだやかで航海に適している地中海は、政治的統一の有無にかかわらず、古くから経済、文化の頻繁な交流の場であった。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3大一神教を兄弟宗教として生み出した地中海世界が、競合、紛争の種を宿しながらも、多くの民族や文化を、その多様性と異質性を損なわないまま日常的な交わりの中で共存させていたのは、なによりも商人が取り結ぶ商業ネットワークに裏打ちされた都市型貨幣経済が確立された世界であったからである。

以上の様な理由から、今日のヨーロッパのルーツを探る時、対岸の北アフリカや中近東も含み込んだ地中海世界の存在はどうしても無視出来ない。

ミヨー(1892〜1974)

地中海序曲 作品330

ミヨーは南フランスの燦々と降り注ぐ陽の光溢れるローマ時代からの都市、エクス・ァン・プロヴァンスに生まれた。ポール・セザンヌ、エミール・ゾラの出身地と同じである。ヨーロッパで一番古いユダヤ人の家系の一つであったミヨー家は、元来商業を営み、BC5、6世紀には既にプロヴァンスに定住していた。

6才からヴァイオリンを始め、パリ音楽院入学後に作曲をジュダルジュ、ダンディ、デュカ等に師事した。変わった経歴としては、24才から約2年間、駐ブラジル公使となったポール・クローデルの秘書として、リオ・デ・ジャネイロに住んだ事で、この体験は後の作品に多くの影響を及ぼす事になる。

パリに戻った後、オネゲル、プーランク等と「6人組」を結成した。ミヨーは非常な多作家で、450近い作品をすべてのジャンルに残している。その作風は、いかにも南仏的、地中海的な明るさを持ち、スパイスのきいた不協和音や多調性を用いて、少々ニヒルで 小生意気なメロディーを彩る。

1953年に作曲された《地中海序曲》は緩急緩の3つの部分を持つ短い序曲。

サン=サーンス(1835〜1921)

ピアノ協奏曲 第5番 ヘ長調 「エジプト風」 作品103

パリの中心、コンコルド広場近くのマドレーヌ寺院は、サン=サーンスが長年にわたってオルガニストを務めた教会で、ここで彼の国葬が行われた1921年は、ベルクが《ヴォツェック》を書き終えた年である。サン=サーンスが生まれた1835年は、ベートーヴェン、シューベルトが亡くなってまだ10年にもならなかった時であった事を考え合わせると、彼の86年の生涯は、実年数以上に長く感じられる。

早熟の天才といわれた彼の最初の作品には1841年5月15日の日付と5才半という年令が表紙に書かれており、モーツァルトのピアノ協奏曲 K.450でピアニストとしてデビューしたのは10才の時であった。「りんごの木がりんごを実らすように自然に音楽を書いている」と語ったサン=サーンスの作風は、ベルリオーズからの影響である繊細で精妙な管弦楽法と、リストによる楽章の連結、主題変換の技法といったものを示している。1871年には、フランスの作曲家による管弦楽曲や室内楽曲演奏を目的とする国民音楽協会を創設した。

国家記念碑的に活躍した彼も、私生活では不幸が多く、1才の息子の為にルクサンブール公園近くのムッシュー・ル・プランス通り14番地のアパルトマンに移ったものの、息子は翌年、そのアパルトマンのバルコンから落ちて亡くなり、6週間後には次男も旅先のランスで病に罹り7ヶ月の短い生を閉じてしまった。この悲劇は、彼の性向を家庭から逃れるように仕向け、ついに6年間の結婚生活にもピリオドを打つ。その後、 1888年に彼の母親が亡くなると、翌年にはアパルトマンも引き払い、旅行ばかりする生活に溺れてしまった。

彼の足跡は、北アフリカ、南北アメリカ、セイロン、東南アジアにまで及び、亡くなったのも、何度目かのアフリカ旅行の途中に立ち寄ったアルジェのホテルであった。

《ピアノ協奏曲 第5番》は、サン=サーンスの最後のピアノ協奏曲で、彼の楽壇デビュー50周年を記念して、パリのサル・プレイエルで、1896年6月2日に作曲者自身のピアノ独奏によって初演された。第4番から既に21年も経ており、前4作程に構成面の追求は行われず、より自在で平明な表現が目立っている。

第2楽章は、この協奏曲の名前の由来となった楽章で、独奏ピアノがエキゾティックなエジプト風の音階を奏する、ナイル河畔の夜のラプソディーである。

Appartement Saint-Sëans vécut

(写真2-1)サン=サーンスが1877年から12年間住んだムッシュー・ル・プランス通り14番地のアパルトマン(現在は1階が銀行になっている)

アルジェリア組曲 作品60

《アルジェリア組曲》は1880年45才の時の作品で、彼が好んだアルジェの絵画的印象を4つの曲にまとめ、次の様なタイトルと情景描写を曲頭に書き添えている。

第1曲 前奏曲・アルジェの風景

大きなうねりに再び翻弄されると、船橋からアルジェの町並みが遠望された。色々な雑踏の音がにぎやかに聞こえる中で“アッラーの神万歳! アッラーの預言者マホメット”という叫びがきわだっている。最後の一揺れとともに、船は港に錨を降ろす。

第2曲 ムーア風ラプソディー

旧市街のいくつもあるムーア風のカフェで、アラブ人達は、フルート、ルバーブ、長太鼓の調べに乗って、なまめかしい官能と放縦をくり返すいつもの踊りに身を委ねる。(筆者註:ルバーブはアラビア起源の胡弓に似た擦弦楽器。通常は二弦。)

第3曲 夕べの幻想・ブリダにて

オアシスのヤシの木の下、夜の香りが漂い、遠くから愛の歌とフルートに愛でられたリフレインが聴こえる。

第4曲 フランス軍隊行進曲

アルジェに戻る。市場とムーア人のカフェの絵の様な風景の中にフランス連隊の速歩が聞こえる。その勇ましい足音は、オリエントの風変わりなリズム、物憂げなメロディーと見事なコントラストをくり広げる。

イベール(1890〜1962)

寄港地

パリに生まれたイベールは、最初演劇に傾倒してコンセルヴァトワールの演劇科に入ったが、デ・ファリャの従妹に当たる母から受け継いだ音楽の才能に目覚めて音楽科に移り、ジュダルジュ、ヴィダルに作曲を学んだ。

24才の時に第1次大戦が勃発し海軍士官となり地中海などで任務につく。戦後パリに戻って作曲活動を再開し、1919年にローマ大賞を得て、ローマに留学した。《寄港地》はローマ留学中の1922年に作曲された。その後、1936年からはかつて自分が留学したローマのヴィラ・メディチの館長、1955年からパリ・オペラ座の総監督という要職に迎えられたが、家庭では、男同士の友人の様に物判りの良い親父だったと御子息のジャン=クロード・ イベール氏は語っている。

地中海を航海中に寄港するいくつかの港の情緒が、ドビュッシー、ラヴェル風の管弦楽法と、古典的な型式感を巧みに混ぜあわせて表現された《寄港地》は 次の3曲から構成されている。

第1曲

ローマからシチリア島北岸のパレルモへの航海

第2曲

シチリア島の西南対岸、北アフリカのチュニスから内陸部ネフタへの砂漠の旅

第3曲

地中海に面したスペインの港ヴァレンシアの風景

avec Jean-Claude Ibert

(写真2-2)ジャン・クロード・イベール氏と

Villa Medici

(写真2-3)イベールが《寄港地》を作曲したローマのヴィラ・メディチ(J-C.イベール氏提供)

Le piano d’Ibert

(写真2-4)イベールが使用したピアノ(J-C.イベール氏提供)

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