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Vol.4 「武満徹とフランス音楽 I」 発売

Ombres et Lumières

矢崎彦太郎

今日2月20日は、1996年に65歳の生涯を閉じられた武満徹氏の御命日に当って居ります。清瀬保二に師事されたとはいえ、主に独学で、ドビュッシー、メシアン等のフランス音楽から多くの影響を受けられた武満氏については、御自身でも音楽論、芸術論的なエッセイ集、対談集を発表され、評論家によって展開された武満徹論も出版されていますので、この場では、武満氏と私の個人的ないきさつについて少し書かせて戴きます。

武満氏と初めてお言葉を交わしたのは、私がまだ渡欧する前、当時指揮研究員を務めて居りました旧日本フィルの練習場だったと記憶していますから、1970年頃の事だと思います。渡欧してからは全く失礼していたのですが、1976年に私としては初めて「弦楽のためのレクイエム」をイタリアで演奏する事になったのでスコアを勉強して準備してみますと、楽譜にいくつかの疑問点や、印刷ミスとしか思えない個所があったので、思い切って東京に質問のお手紙を送りました。まだファックスもEメールもない時代です。航空便でもかなりの日数がかかり、なかなか御返事が戴けないので、どうしようかと思って居りました所、丁度イタリアに出発する日の朝に速達が届いて胸をなでおろしました。質問に対するお答えに加えて、かけ出しの若造指揮者に宛てたとは思えない、丁寧なお手紙が添えられてあって感激致しました。

その後、ヨーロッパに武満氏がいらっしゃる度に、何度か親しくお会いしましたが 「夢の縁へ」初演の時には、2週間程毎日、打ち合わせ、スコアの研究、リハーサル等音楽上の事だけでなく、それこそ朝から晩まで、合宿の様な感じで一緒に食事、晩酌をし、形而上的な事から形而下的な事に至るまで、多岐にわたるお話をして、そのお人柄に触れられたのは、大変貴重な体験でした。ベルギーでの初演の数日後にパリでコロンヌ管弦楽団と再演致しましたが、パリへ戻る時には、有名なランスのカテドラルを御覧になった事がないとおっしゃったので、少し回り道のドライヴをして、私の運転するポンコツ車で御案内したのも楽しい想い出です。

亡くなられた時には、私は日本に居りませんでしたので、お別れにも伺えませんでした。今年と来年の御命日に、このタケミツメモリアルと名付けられたホールで、武満氏の作品とフォーレのレクイエム、ドビュッシーの「聖セバスティアンの殉教」(2004年)を組んで演奏し、御冥福を祈りたいと思って居ります。

武満徹(1930〜1996)

弦楽のためのレクイエム

1957年に作曲された武満氏の最も初期に属する作品で、オーケストラのために書かれた曲としては、一番最初に発表された。海外での演奏頻度も、彼の作品中最も高いと思われる。私もヨーロッパでは、イタリア、スイス、イギリス、フランス、ポーランド、ドイツ、ノルウェー、ベルギー等で演奏し、いずれもオーケストラから深い共感を持って迎えられた。1959年に来日したストラヴィンスキーがこの曲を聴いて、畏敬し、絶賛した事は有名な話である。

曲の構造は、ABA’の3つの部分から成る単純なものだが、ピアニッシモとピアノの間を揺れ動き、沈黙から生まれ、沈黙へと消えて行くロングトーン、時に鋭いアクセントを含んだ多様な音色は、後期の武満トーンの「基盤」となっている。初期の作品なので、本来は武満トーンの「萌芽」と書くべきかも知れないが、それにしては余りにも完成された宇宙がこの作品には有る。尤も武満氏はこの様な見方がお好きではないらしく、ある日酔った勢いで、生意気に「結局、武満さんの曲はすべてレクイエムに集約されますね」と失言をしたら、御機嫌が悪かった事をつけ加えておきたい。

夢の縁へ

1970年代後半から、武満氏は「夢と数」と「水」の2つのシリーズを多く作曲された。これは、ただ単に曲の題名という事ではなく、もっと創作の本質にかかわる方法論的なものである。氏は語っている。「私のなかに、予告なしに顕れてくるある不安定なもの−つまり、自分の内面に衝きあげてくるある種のもやもやですね−そうした夢の縁を、音楽的に、また数の操作を使って、はっきりさせようという気持があるのです。」

1983年3月12日、「第4回リエージュ国際ギター・フェスティヴァル」(ベルギー)で鈴木一郎のギター、リエージュ・フィルハーモニック管弦楽団と私の指揮で世界初演された。ベルギーのシュルレアリスムである「夢の芸術の画家」ポール・デルヴォーの世界から触発されて作曲された作品である。武満氏から受け取った83年1月14日付の手紙には、書きミスの訂正の後に、次の様に書き添えられている。

「音楽は変拍子の多いゆれの多いものですが、それに全く単純な旋律的動機に終始していて、指揮者にとっては立体感をつくるのが、やっかいなんではないかと思いますが、色彩的な空間が出たら嬉しいです。とりとめのない夢のように、相互に連関のない音楽的イメージの砕片が、実はひとつの深層から生じているというようなものです。」

フォーレ(1845〜1924)

レクイエム 作品48 (1900年版)

フォーレは1845年5月12日、トゥールーズから程近いピレネー山脈ふもとのパミエで、初等教育監督官トゥッサン=オノレ・フォーレの第6子として生まれた。子供の頃から音楽の才能を示し、1854年には教会音楽家を養成する目的でその頃新設されたニデルメイエール音楽学校の給費寄宿生としてパリに送られた。

この学校の訓練は厳格で、シューマンやショパンは禁じられ、グレゴリオ聖歌と、パレストリーナ、J.S.バッハを教材としていたが、教会旋法の使い方、調に含まれない変化音による調性概念の拡大、和声進行の柔軟性等、当時のコンセルヴァトワールよりも進歩的な教育内容で、これはその後、彼の音楽の特徴を形作る事となった。1861年に校長のニデルメイエールが亡くなると、サン=サーンスが同校に招かれた。フォーレにとって10歳上の作曲家との出会いは決定的で、先輩との親しい関係は、サン=サーンスが1921年に亡くなるまで続く。フォーレがオルガニストを務めた、パリの中心にあるマドレーヌ寺院は、以前はサン=サーンスがオルガニストを務めていた場所であり、フォーレの葬儀も、サン=サーンスと同じくマドレーヌ寺院で行われた。コンセルヴァトワールの院長に出身者以外の者が就任する事は極めて稀であるが、1905年から20年まで院長として音楽院の改革をし、ラヴェル、シュミット、ケックラン、エネスコ、ブーランジェ等多くの弟子を育てた。

フォーレは夥しい数の歌曲、多くの教会音楽、室内楽曲、ピアノ曲を残しているが、最も有名なものはレクイエムである。現在では、すべてのレクイエムの中で大変ポピュラーなこのレクイエムも、当時の有名な建築家ルスファシェの葬儀に際して初演された時には、司祭から斬新過ぎると叱責されたらしい。この1888年版は、現在の曲の内の第2曲目「オッフェルトワール」と第6曲目「リベラ・メ」を欠いていたので、バリトンのソロは存在しないし、オーケストラも管楽器は使用されず、ヴァイオリンは「サンクトゥス」の中で独奏として使われただけであった。次の1893年版になって「オッフェルトワール」と「リベラ・メ」が加えられ、トロンボーンも3本編成されたが、まだ木管楽器は使用されていない。出版社側は、この作品が多くのオーケストラで取り上げられる為には、通常に近い編成にする必要があると作者を説得し続け、その結果生まれたのが、今夜演奏する1900年版で、コンサート・ヴァージョンとも言われている。

作曲の経過からも判る様に、このレクイエムの構造は第4曲の「ピエ・ジェズゥ」を中心として放射線状に広がるものである。この独唱部分のスケッチは最も初期の段階から見られるので、この曲を核として全曲が発展していったと思われる。又、統一感を与えるために、旋律動機が多く用いられ、他の曲の中でも再現されている。

尚、今夜の演奏は、1998年に、ジャン=ミッシェル・ネクトゥ校訂によって出版されたクリティック・エディションが使われて居り、ラテン語の発音は、作曲された当時は1904年にヴァチカンが教会ラテン語統一化を行う以前であったので、フォーレがイメージしたと思われるフランス語式ラテン語発音を試みている。

  • 第1曲 入祭唱とキリエ
  • 第2曲 オッフェルトワール(奉納唱)
  • 第3曲 サンクトゥス
  • 第4曲 ピエ・ジェズゥ
  • 第5曲 アニュス・デイ
  • 第6曲 リベラ・メ
  • 第7曲 楽園にて

Appartment Fauré vécutPlat - Fauré

(写真4-1,2)フォーレがレクイエムを作曲した当時住んでいたアパルトマン – 154. Bd. Malesherbes(パリ17区)

Église de la Madeleine

(写真4-3)フォーレとサン=サーンスがオルガニストを務めたマドレーヌ寺院

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