Vol.8 「武満徹とフランス音楽 II」 年 刊発売
2008年3月20日 Ombres et Lumières
矢崎彦太郎
昨年に続き、今年も、武満徹氏の御命日に、このタケミツメモリアルと名付けられたホールで「武満徹とフランス音楽」というタイトルのコンサートを開く事になりました。武満氏に初めてお目にかかった1970年頃から、音楽を媒体として、氏と共有する時間を持つチャンスに恵まれた事は、何事にも換えられない貴重な体験でした。「夢の縁へ」をベルギーで世界初演した折には、合宿の様に何日間も朝から晩まで御一緒させて戴き、小旅行までお供して、そのお人柄に触れられたのです。
武満氏が、ドビュッシーやメシアンのフランス音楽から影響を受けられたのは衆知の事実ですから、今回のプログラムを組むに当って、ドビュッシーを選ぶのに躊躇はありませんでした。しかしその後、「遊戯」にしようか、「聖セバスティアンの殉教」にしようか、さんざん迷いました。武満氏が、ドビュッシーの作品の中で「遊戯」を一番お好きでいらしたのは、よく伺って居りましたし、分析的なお話を聞かせて下さった事もありました。 それを、敢て「聖セバスティアン」を選んだのは、私が初めて「鳥は星形の庭に降りる」を聴き終った時、何故か突然に、「聖セバスティアン」を想った経験があるからです。「鳥は星形の庭に降りる」の中心音がF#であり、「聖セバスティアン」の交響的断章もF#の長和音で終るからかも知れません。又、武満氏の音楽に漂う神秘的な官能性と、「聖セバスティアン」の異教的官能性に、何か共通するものを感じるからかも知れません。
武満氏のお言葉の一つを引用して、御冥福をお祈りしたいと思います。−音楽は、紙の上に固定された、音符なのではありません。音楽は、ひとつの音を積極的に聴くことから始まるのです。そして、そこにさまざまの感情を聴き出すことが、作曲という仕事の本質ではないか、と考えます。
武満徹(1930〜1996)
鳥は星形の庭に降りる
1970年代後半から、武満氏は「夢と数」と「水」の2つのシリーズで多く作曲されたが、1977年に書かれたこの作品は「夢と数」シリーズの代表作である。マン・レイが撮ったマルセル・デュシャンの後頭部が星形に剃ってある写真を見た夜に、星形の庭へ、一羽の黒い鳥にリードされた白い鳥の群れが舞い降りる夢を見、強裂な印象を受けて作曲したと、武満氏は語っている。この黒い鳥こそ、曲全体の中心音となっているF#である。この音を核として、星形(5角形)という5を基礎とする旋法、リズムパターンで裏打ちされた視覚的な音空間が繰り広げられる。
ピエルネ(1863〜1937)
バスク風ファンタジー
ドイツ国境やルクセンブルクに近いロレーヌ地方のメッツに生まれたピエルネは、パリのコンセルヴァトワールで、ラヴィニャック、フランク、マスネーに師事した。19才でローマ大賞を受賞している。フランクの後任として聖クロティルド教会のオルガニストや、コロンヌの後継者としてコロンヌ管弦楽団の首席指揮者を24年間努めた。
ジャック・ティボーのために1927年に作曲された「バスク風ファンタジー」は、ヴァイオリン独奏とオーケストラによる1楽章形式の幻想曲。バスク地方とは、南フランスの大西洋側、イベリア半島北部、ピレネー山脈西側に広がるバスク語を話す地域で、日本の四国よりやや広い。バスク人、バスク語共に、ヨーロッパの他の民族、言語と全く異なり、その起源は謎である。この曲はバスク地方の俗謡を主題としており、中間部には典型的な5拍子のZortzicoというリズムが聴かれ、Ingurukoと呼ばれる輪舞で華やかに終る。
(写真8-1,2)ピエルネが1900〜1937に住んで「バスク風ファンタジー」を作曲したアパルトマン 8.rue de Tournon(パリ6区)
武満徹
ノスタルジア−アンドレイ・タルコフスキーの追憶に
タルコフスキーは、1986年に亡命先のパリで亡くなったソ連の映画監督で、「ノスタルジア」は、同監督の映画の題名である。1987年に作曲された。弦楽オーケストラに支えられたヴァイオリン・ソロが、メランコリックな旋律を歌う曲で、ユーディー・メニューインのために委嘱され、彼によって初演された。細分化された弦楽オーケストラが、タルコフスキー映画の特徴的イメージである雨や霧を表わす「水」シリーズに属する作品。
ドビュッシー(1862〜1918)
聖セバスティアンの殉教
ローマ市、アッピア街道沿いにある聖セバスティアノ聖堂は、288年に殉教した聖セバスティアンを葬ったカタコンブを縁起としている。ナルボンヌ(現在は南フランス)に生まれ、幼くして洗礼を受けて、当時は禁じられていたキリスト教徒になったセバスティアンは、迫害を受ける信者を救う為、ローマ軍団に身を投じた。軍功輝かしく、ディオクレツィアヌス皇帝により親衛隊々長に抜擢されるが、信徒を助けていた事が発覚し、射殺刑に処せられ、放置される。奇跡的に一命を取り止めた後、再度、皇帝の前に現われて弾劾したので、棍棒で打ち殺されたと伝っている。しかし、史実を裏付ける史料はほとんどない。
この伝説は、古代世界の美に憧れる15世紀のルネッサンス時代に、セバスティアンを異教的官能性を持った裸体の美青年の姿で、聖画に出現させる。ここに、ギリシァの異教神を弾劾しながら、自身は異教的な美しさに輝くセバスティアンという、自己矛盾の図式が形成されるに至った。ルネッサンスと並び、歴史の転回点となった19世紀末に、セバスティアンがギュスターヴ・モローやダンヌンツィオによって取り上げられたのは、美しすぎる殉教者という特異性にあると思われる。
イタリアの詩人ガブリエレ・ダンヌンツィオ Gabriele d’Annunzio (1863〜1938)が「聖セバスティアンの殉教」を書いた直接の要因は、ロシア系ユダヤ人の舞踏家で、ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の一人であったイダ・ルビンシテインの依頼によるものである。彼女の為には、ジイドとストラヴィンスキーが「ペルセフォーヌ」を、クローデルとオネゲルが「火刑台上のジャンヌ・ダルク」を創作している。台本の完成は1911年3月で、パリ・シャトレ座での初演は同年5月22日であった。台本が出来上った部分から作曲を始めていたとはいえ、遅筆のドビュッシーとしては例外的な速さである。初演の指揮を執ったアンドレ・カプレが、清書等かなり援助したらしい。装置衣装はレオン・バクスト、振付はミッシェル・フォーキンという豪華スタッフであったが、上演に5時間もかかり、余りにも異教精神が強いという理由で、パリ大司教が信者の観劇を禁止したので、興行的に大成功とは言えなかった。
今夜は、オーケストラのみの演奏用に編曲された交響的断章に、全曲版からファンファーレを加えて演奏される。このファンファーレは、デュカ、ラヴェルの作品と並んで、フランス近代の最も有名なファンファーレである。
- 百合の中庭
- 法悦の舞踏と第1幕のフィナーレ
- ファンファーレ
- 受難
- 良き羊飼い
中世霊験劇を模して各幕は前奏曲で始まるが、これは第1幕の前奏曲。
セバスティアンはキリスト教徒である事を告白して、捕えられた双生児のマルクとマルセリオンを励ます。天へ放って帰らぬ矢や、燃える薪を渡って傷つかぬ足の奇蹟を演じて人々を驚かせた後、超自然的に輝き始めた百合に囲まれて、セバスティアンはキリストを讃美しながら熱狂的に法悦の舞踏を踊る。
「偽神の会議」と名付けられた第3幕への前奏曲。この幕で、異教的古代世界を代表する皇帝と、キリスト教的世界を代表するセバスティアンが対決する。
皇帝は、最も愛する古代世界の理想的な美を具現化しているセバスティアンを、自ら処刑して破壊しなければならない悲劇に直面する。せめて美しく死なせようと、花環と黄金の飾りで窒息させるが、セバスティアンの部下が、彼を救い出す。
第4幕「傷つけられた月桂樹」への前奏曲で始まる。裸にされたセバスティアンは、月桂樹の幹に縛りつけられているが、その枝の間から、一人の羊飼いが一時現われ、すぐ消える。しかし、その後も十字架にかけられた羊飼いの影(キリスト)は月桂樹の上に広がっている。セバスティアンを愛する部下の射手達は、彼を射る事を拒否するが、彼は隊長として自分を処刑する命令を下す。無数の矢に射抜かれて息の絶えたセバスティアンの亡骸から縄目を解くと、突然、全ての矢が傷口から消え、月桂樹の幹に突き刺っている。第5幕「天国」の音楽が6小節だけ響いて、交響的断章は終る。
(写真8-3,4,5)80.avenue Foch(当時はavenue du Bois de Boulogne)(パリ16区)にある square no.24 の家でドビュッシーは「聖セバスティアンの殉教」を作曲した