Vol.15 「鳴れよ縦笛、響けよ風笛」 2009年12月8日 刊発売
2008年12月10日 Ombres et Lumières
《フランス音楽の彩と翳》シリーズを、12月にお届けする機会が初めて巡って参りましたので、今回は、クリスマスにちなんだプログラムを選曲致しました。
クリスマスの事を、フランス語では《Noël》と言います。これは、俗ラテン語のnotalis、古典ラテン語のnatalisを語源としている言葉で、現代フランス語で《生まれる》という意味のnaîtreと同じ源であるといわれています。
キリスト教の中でもカトリックが主流なフランスは、12月25日を宗教祝日だけでなく、国の祝日に指定しています。官公庁、郵便局、銀行は勿論、多くの店やレストランも休み、ドンチャン騒ぎとは無縁です。真夜中のミサに参列する以外は外出せず、普段は遠く離れて暮らしている家族も集まって、身内で温かく、静かに過すお祭りが基本。ドンチャン騒ぎは12月31日夜で、花火や爆竹を鳴らしたり、友人達と繰り出して、賑やかに飲み明かし、飲酒運転を取り締まるお巡りさんが、活躍する場となります。
とは言っても、食道楽のフランス人ですから、クリスマスも、ミサに行く前か、ミサから帰ってからは、家庭でシャンパンや年代物のワインを開けて、フォワグラ、生ガキに始まり、ビュシュ・ドゥ・ノエル(bûche de Noël)と呼ばれる薪の形をしたケーキのデザートまで、しっかりと食べます。中には、肝心要のミサに行く時間も惜しんで飲み食べ続けている不心得者も居ます。私には、他の人の事を批判する資格は、全くありませんが。
12月に入った頃から始まる、シャンゼリゼ通り等のイルミネーションは見事なものです。葉が落ちて枝だけのマロニエ並木に、無数の白色電球をちりばめた単色照明が、コンコルド広場の白色街灯と絶妙なバランスで協和します。35年前、この情景を初めて見た時、色を使い過ぎない上品なセンスの色彩感覚に、思わずはっとさせられました。昨年から、省エネの為に、シャンゼリゼ通りは、ブルーのLED(発光ダイオード)に代えられました。鮮やかできれいなブルーですが、以前の白色を懐かしむ声も聞かれます。
10月下旬から旅に出て、パリに戻っていないので、今年の飾り付けがどの様か、残念乍ら、お伝えする事は出来ません。この時季にパリにお越しの折には、マドレーヌ寺院、ノートルダム寺院等にある、キリスト生誕の場面を人形で箱庭風に飾り付けたクレシュ(crèche)や、オペラ座裏で2軒並んでいるデパートのディスプレイもご覧戴き、厳粛さの中に楽しさを混ぜ合わせた、本場のクリスマスの独特な雰囲気を味わって戴けたらと思います。
ゴセック(1734-1829)
有名なガヴォットの作者で、フリーメイソンだったゴセックは、当時フランス領で、現在はベルギー領になっているヴェルニー(Vergnies)で農家の子として生まれました。幼い頃から音楽に親しみ、声楽、ヴァイオリンを学んだ後、ラモーの知己を得て、17歳の時パリへ移住。コンティ家の音楽監督、コンセール・デ・ズアマトゥール、コンセール・スピリテュエルの指揮に携わる一方、フランス最初の交響曲作家として、95年の生涯に、40曲以上の交響曲、20曲以上のオペラ、多数の宗教曲、室内楽曲を残しました。又、1795年には、パリ音楽院設立に力を尽して、監察官、作曲家教授という立場で、後進の指導に当りました。フランス革命期を代表する作曲家の一人です。ゴセックによって拡げられたオーケストラの表現力は、ベルリオーズの創作意欲に強い刺激を与えました。
1766年に作曲された《第1クリスマス組曲》は、200年後の1966年に初出版されました。今夜は、アドリブ(使用任意)のコーラスを除いて、純然たる器楽曲として演奏致します。
ドビュッシー(1862-1918)
絵本作者で画家のアンドレ・エレは1913年2月に、子供のためのバレエ台本をドビュッシーに見せました。エレの構想に夢中になった彼は、同年10月には、ピアノ譜を完成し、エレの素朴で可愛らしい挿し絵と台本を付けて出版されました。ドビュッシーは、オーケストレーションにすぐ取り掛かりましたが、ロシアへの演奏旅行、第1次大戦の勃発等で中断され、管弦楽版は、ドビュッシーの没後、友人であった、アンドレ・カプレの手によって完成されました。ドビュッシーが、娘のシュウシュウのために作曲したピアノ曲《子供の領分》をオーケストラ用に編曲したのもカプレです。
「人間の社会こそが、おもちゃ箱の中と同じではないか」と前口上で明らにされるプロットやエピローグでプレリュードと同じ場面に戻る世界観、大戦前夜の不穏な時世、フランスの童謡、ビゼー、グノー、メンデルスゾーン、自分の旧作等からのパロディー的引用による、ドビュッシーらしい軽い皮肉混じりのユーモアは、全て、この曲が、単純に子供のためだけに書かれた無邪気な作品ではない事を物語っています。ドビュッシーは、「人形の魂は、メーテルランク(オペラ《ペレアスとメリザンド》の台本作者)よりも難しい」と述懐しております。
バレエとしての初演は、1919年12月10日に、キノーの振付、エレの舞台装置と衣裳、アンゲルブレヒトの指揮により、パリのヴォードゥヴィル劇場で行われました。
全体は、
プレリュード-おもちゃ箱の眠り
第1景-おもちゃ屋
第2景-戦いの場
第3景-《羊小屋・売出し中》
第4景-幸せになった後
エピローグ
の6つの部分から成っています。今夜の演奏のために、ピアノ原譜の挿し絵とスコアに書かれたバレエ台本を基に、ナレーション台本の書き下ろしを試みました。
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このお話は、おもちゃ箱の中で起きたお話です。
おもちゃ箱は、私達の町と同じに、そこでは、おもちゃが、
人間の様に暮らしています。いいえ、本当は、もしかしたら、
町がおもちゃ箱と同じで、人間が、おもちゃの様に暮しているの
かも知れません。
色々なおもちゃが登場しますが、主役は3人です。
かわいい女の子のお人形さん。
純真でまじめな兵隊さん。
軽薄で、なまけ者で、けんかっ早い道化のプルチネルラ。
プレリュード - おもちゃ箱の眠り
物音一つしない夜。辺(あた)りは皆、寝静まっています。
ほのかな街頭に照らされたおもちゃ屋さんの
ショーウィンドー越しに、大きな白木のおもちゃ箱が
見えます。奥には、ピエロ、プルチネルラとお人形さんが、
壁にもたれかかって眠っています。
第1景 - おもちゃ屋
人形の一人が目覚めて、拍子を取りながら歩き出しました。
スイッチを押すと、店の中が、ぱっと明るくなります。
蓄音器のハンドルを回して、音楽を鳴らします。
明かりと音につられて、人形達が、ごそごそと起きだします。
兵隊さんが、おもちゃ箱から、顔を出しました。
箱の外の様子を、不思議そうに、うかがっています。
優しそうな象が通り過ぎました。おもちゃが列を作って続きます。
黒い仮面をつけた道化師が踊り始めます。
プルチネルラがやって来ました。陽気でふざけたダンスです。
お人形さんが可愛らしく、エレガントなワルツを踊り、
それに続けて、みんな輪になって、にぎやかなロンドを
踊ります。
お人形さんが手に持っていた花を落としました。
兵隊さんが拾って、そっとその花にキスをしました。
カルメンのオペラのように、兵隊さんは、お人形さんに
一目ぼれしてしまったのです。
かわいそうに、兵隊さんは、お人形さんにヒジ鉄を喰らわ
されて、フラれてしまいました。お人形さんは、お調子者の
プルチネルラの方が好きだったのです。そんな事にはお構い
無く、強面の隊長さんも加わって、ロンドが続きます。
少しづつ夜が明けてきました。パトロールのお巡りさんの
頭が窓の外に見えました。
人形達は、お店の明かりを消して、急いで眠っていた場所に
戻ります。
第2景 - 戦いの場
青々とした草原の大きな樹の根元で、プルチネルラが、
お人形さんに甘い言葉をささやいています。
「それなら、結婚指輪をちょうだい」お人形さんが言います。
不まじめなプルチネルラは笑い飛ばして、冗談にしてしまいます。
兵隊さんたちが行進して来る音が聞こえます。
プルチネルラは逃げ出します。隊長さんが号令をかけて
隊列を整え、仲間を連れて来たプルチネルラと戦いが始まり
ました。グリーンピースの弾の撃ち合いです。
あの兵隊さんは、たまに当たって傷ついてしまいました。
月夜の草原で、お人形さんが落とした花を胸に抱いて、
横たわっています。
不安げな面持ちで、お人形さんは、お祈りを唱えます。
プルチネルラが忍び足で近付いてきました。
お人形さんが怯えて見ていると、プルチネルラは兵隊さん
から、鉄砲と花を取り上げましたが、結局、花は返して、
鉄砲だけ持ち去りました。
お人形さんが兵隊さんの脇にかがみこんで、介抱します。
兵隊さんは、やっと気がついて、ゆっくりと起き上がりました。
プルチネルラ達の勝利のどよめきと歌声が遠くから
聞こえますが、兵隊さんは、静かに休んでいます。
第3景 - 《羊小屋売出し中》
荒地に古い羊小屋が建っています。崩れかけた柵には
《羊小屋 売出し中》の看板が掛っています。
包帯をしている手には、あの花を、もう片方では、お人形さんの
手をしっかりと握って、兵隊さんが現れました。
2人で、この羊小屋を買ったのです。
遠くから羊飼いが吹く葦の草笛や、古い民謡の調べが聞こえます。
しっかり者のお人形さんは、まず、2匹の羊と2羽のあひるを
買って、ささやかながら、楽しい家庭を築き始めました。
第4景 - 幸せになった後
20年が過ぎました。みすぼらしかった羊小屋は、
気持ちの良い山荘に建て替えられました。
立派な白い髭を貯えた兵隊さんは、金庫によりかかって、
今ではしおれてしまったあの花を、まだ持っています。
彼の横に居るお人形さんは、かなり太って、もう踊れない
ので歌を歌います。それに合わせて、彼等の子供たちが、
元気なポルカを踊ります。
プルチネルラはどうなったのでしょう。ご安心ください、
畑の番人に雇われていますよ。
エピローグ
何事も無かったかのように、次第に舞台は初めに戻ります。
物音一つしない夜。辺りは、皆、寝静まっています。
ほのかな街頭にてらされたおもちゃ屋さんの
ショーウィンドー越しに、フタの閉じたおもちゃ箱と、
壁にもたれかかって眠っている人形達が見えます。
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オネゲル(1892-1955)
ゲルマン系スイス人の両親を持つオネゲルは、ノルマンディーの港町、ル・アーヴルに生まれ、チューリヒとパリの両音楽院で教育を受けました。《6人組》の一人ですが、ゲルマンとラテンの狭間で育った彼の作品には、ユニークな響きと音楽語法が顕著に現れています。生涯で2度も体験させられた、ドイツとフランスの壮絶な戦いは、その様な文化的下地を持つオネゲルに、自己分裂的な苦悩と、深い悲しみをもたらしました。
第2次大戦間近の1930年代終りに、オネゲルはベルンに住む友人で、詩人、台本作者のセザール・フォン・アルクスから、新らしい受難劇の協同製作を提案されました。旧約・新約聖書を網羅し、上演には、昼食・夕食休憩も挟み、8時間はかかるという巨大な作品になるはずでした。ところが、台本が完成し、作曲もほとんど仕上った1944年12月に、フォン・アルクス夫人が亡くなると、その数時間後に、夫のセザール本人も後追い自殺を図るという悲劇が起こり、ショックを受けたオネゲルは、草稿を戸棚の奥深く仕舞い込んで、封印してしまったのです。
顛末を聞き及んだ親友の指揮者、パウル・ザッハーは、この作品の一部だけでも日の目を見る機会を作ろうとオネゲルを説得し続け、ザッハーが創立したバーゼル室内合唱団の25周年記念に上演する事を提案しました。数年前から健康が優れなかったオネゲルですが、親友の頼みに否とは言えず、封印した楽譜を再び取り出して、改作・編集に励み、《クリスマス・カンタータ》として1953年1月25日にパリで完成。同年12月16日(一説には12日)にザッハーの指揮により、バーゼルで初演されました。
オネゲル最後の大作となったこの作品は、フランス語、ドイツ語、ラテン語が交唱し合ってクリスマスを喜こび祝うという、オネゲルの独仏宥和への熱い祈願が込められております。中でも、4曲のクリスマス・キャロルが、歌う声部と言語を交換しながら同時進行する中間部分は圧巻で、いつの時代にも、他者の(歌)声を聞き、その歌を歌い継ぐ姿勢の重要さを象徴的に指し示した、オネゲルの遺言とも思われる強いメッセージを発しています。