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Vol.16 「麗しのマリアンヌ」 2010年1月15日 発売

Ombres et Lumières

マリアンヌ(Marianne)は、フランス共和国のシンボルとなっている女性。本名はマリー=アンヌ・モナ(Marie-Anne Monhat)で、1759年に生まれた実在の人物だ。アルザスのシゴルシェイムで亡くなったのは1813年だから、ルイ15世、16世の治世から、1789年の大革命、第1共和政(1792-1804)、ナポレオン1世による第1帝政を経て第1次王政復古(1814)の直前まで、激動の時代を生き抜いたことになる。大革命とナポレオン帝国は、フランスの近代社会成立期における2つの巨大な歴史的経験であった。彼女の夫の親友でテルミドール派革命家のP.バラスはこの可愛らしい名前を気に入り、彼が主宰するグループを「マリアンヌ」と名付けた。

彼女の没後も革命の余震は続く。40年足らずの間に、ナポレオン1世の百日天下、第2次王政復古、7月革命と7月王政、2月革命と第2共和政、ナポレオン3世のクーデタによる第2帝政と大きく揺れ、対外的には、アルジェリア遠征、クリミア戦争、イタリアへの武力干渉、中国出兵、メキシコ出兵と争乱が相継ぐ。フランス中の思考が、「マリアンヌ」に象徴される共和制と、「ナポレオン」に象徴される強い帝国へ寄せる憧憬の間を行きつ戻りつしたのだった。

1870年、スペイン王位継承問題に端を発したプロイセンとの戦い(普仏戦争)に敗れて第3共和政が発足し、政治体制は一応の安定を見る。1877年以降マリアンヌの胸像がナポレオン3世に替って、1877年以降、役所等に置かれた。近年は胸像のモデルをブリジット・バルドー、カトリーヌ・ドヌーヴ等が務めた。革命期に民衆が被った縁のないフリジア帽を戴いたマリアンヌ像は、ジュール・ダルーに製作されて、パリのナシオン広場にある共和国勝利記念像の中央に屹立し、現在の第5共和政の行く末を見守っている。フランスの通常切手にはデザイン化されたマリアンヌが描かれ、3色旗と組合わされて共和国のロゴマークとなったマリアンヌは、フランス大使館の認可を受けて今日のコンサート・パンフレットの右下に印刷され、大使館の後援であることを示している。

今夜演奏される3人の作曲家は、それぞれ三者三様に、マリアンヌ=フランス共和国への熱い想いを滾(たぎ)らせていた。

マスネ(1842-1912)組曲第7番「アルザスの風景」

マスネはロワール地方のモントーで21人兄妹の末子として生まれた。父は退役軍人、後妻の母はピアノ教師であった。9歳でパリ音楽院に入り、アンブロアズ・トマに作曲を師事。21歳でローマ大賞を受賞しイタリア、ドイツ、オーストリア、ハンガリーを旅する。25歳の時に第1管弦楽組曲がパドゥルー管によって初演され、オペラ・コミック座では「大伯母」と題するオペラも初演されて華々しくデビューを飾る。普仏戦争に従軍した後、36才でパリ音楽院の教授に迎えられ、シャルパンティエ、ケクラン、シュミット等を育てた。グノーの後継者と見られ<マノン><ヴェルテル><タイス>等夥しい数のオペラを作曲し、フランス語のイントネーションと密接に結び付いた自然な旋律とリズムは、<ペレアスとメリザンド>の先駆けと評されている。他の代表的作品は7曲の管弦楽組曲で、<アルザスの風景>はシリーズ最後の曲である。

フランス北東部、ライン川に沿ってドイツと国境を接しているアルザスは、交通の要所として早くから商業が発達し、肥沃な土地の農業、ヴォージュ山脈斜面のブドウによる白ワインやカリウム等の地下資源も豊富で、フランスとドイツの間で領有問題が度々持ち上り、国境紛争が絶えなかった。1870年、第2帝政が倒れ、「マリアンヌ」が復活したのも束の間、数ヶ月後には普仏戦争敗戦により、アルザスはロレーヌ地方と共にドイツに割譲されてしまう。アルザス地方の中心であるストラスブールで、後日国歌となった<ラ・マルセイエーズ>がライン軍のための軍歌として革命期に誕生し、第2次大戦後にはEUの欧州議会が設置された事実は、全ヨーロッパの縮図のようにこの地方が辿ってきた複雑な過去を物語っている。

マスネは、明日からフランス語を教えられなくなるという内容の<最後の授業>で始まるアルフォンス・ドーデの短編集<月曜物語>に感銘を受ける。第17<アルザス!アルザス!>に刺激されて、失なわれた国土にノスタルジックな想いを募らせ、4曲からなる組曲<アルザスの風景>1881年に発表した。

ダンディ(1851-1931)フランス山人の歌による交響曲 Op.25

リヨンから150km近く南西へ下ったアルデッシュ県ヴィヴァレは、ダンディ伯爵家の出身地。ローヌの谷の西側、標高1500mの石灰岩台地が続くセヴェンヌ山地は国立公園に指定されている美しい地方だ。ダンディがパリで生まれた時に母が亡くなり、4才の時には父も他界したので、優れた音楽家であった祖母の下で厳格に育てられた。音楽教育は普仏戦争に従軍して中断されたが、帰還後パリ音楽院でセザール・フランクのオルガンのクラスに学ぶ。1876年にはバイロイトへ赴き<指輪>の全曲初演に立ち会い、一時は熱烈なワグネリアンとなった。1894年スコラ・カントルムをパリに創設し、2年後には併設された新らしい音楽学校の初代校長として、サティやルーセル等後進の指導に与った。

ピアノ独奏を伴った彼のフランス山人の歌による交響曲は<セヴェンヌ交響曲(Symphonie cevenole>とも呼ばれている。1886年に作曲され、翌年パリでラムルー管によって初演された。毎年1度は必らず訪れたセヴェンヌ地方の牧歌を主題にして彼の祖国愛を強く打ち出し、その主題は師のフランクから譲り受けた循環形式を駆使して展開され、3つの楽章を有機的に結びつけている。

マニャール(1865-1914)交響曲第4番嬰ハ短調 Op.21

マニャールの生年月日は、デンマークの作曲家ニールセンと同じ186569日。デュカ、シベリウス、グラズノフも同じ年に生まれた。父はフランスを代表する新聞の1つであるフィガロ紙の編集長。法律を学んだ後、1886年にバイロイトで<トリスタンとイゾルデ>を聴き、直後にパリ音楽院に入学。デュボワとマスネのクラスに入り、23の時、和声学で1等賞を得るが飽き足らず、ダンディの門を叩き、更に4年間勉学に勤しんだ。1896年にはスコラ・カントルムの教師に抜擢されるが、生来、厭世癖のあったマニャールは、1904年妻と2人の娘を伴ってパリの北30kmのバロンにある館に移った。

19147月、第1次世界大戦勃発。家族を避難させて1人バロンに残ったマニャールは、93920分館の敷地内にドイツ兵の姿を見つけて発砲。銃撃戦となり1人を射殺、1人の右肩に傷を負わせたものの、包囲されて1115分戦死。彼の銃の弾倉には、まだ1発の弾丸が残っていた。午後1430分に館は火を懸けられて全焼。未発表作品、自筆譜、草稿は灰燼に帰した。第4交響曲初演から5ヶ月後のことである。

理想主義者のマニャールは寡作な作曲家で、作品番号は22で終わる。他に番号が付けられていない2曲を含めて計24曲だけが残された。4曲の交響曲、3つのオペラ、5曲の管弦楽曲、5曲の室内楽が主な作品。絶対音楽を好んで交響詩的発想を嫌い、ベートーヴェンとブルックナーを信奉して印象派的な雰囲気から隔絶している特異なフランス人作曲家は、49歳でマリアンヌに永遠の愛を捧げた。

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