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Vol.6 「スペイン!!」 発売

Ombres et Lumières

矢崎彦太郎

「ピレネーの向こうはアフリカである」−フランス・ドイツ等ヨーロッパ中枢の国々でよく耳にする自己優越感を露骨に表現したこの言葉には、イベリア半島に対する揶揄だけでなく、エキゾティシズムによる一抹の羨望のまなざしが窺える。確かに、半島の付け根には3000m級の峰を頂くピレネー山脈が立ちはだかり、フランスから一線を画しているのに反して、アフリカは僅か14km幅のジブラルタル海峡によって隔てられているに過ぎない。正方形に近い形の半島は日本の約1.6倍、59万k㎡の面積を持ち、周囲の7/8は地中海と大西洋に面して、海岸線は4000km以上の長さに及んでいる。中央部が険しいピレネー山脈も、その両端の海沿いは交通を妨げる程ではないので、南北をアフリカとヨーロッパ、東西を地中海と大西洋に囲まれたイベリア半島は、それぞれの方角から人間、文化の交差点となってきた。

先史時代には、アフリカからイベロ族、ピレネー山脈を越えてケルト族が到来した。続いて、フェニキア人、ギリシァ人といった地中海民族による植民市建設後、カルタゴ人、ローマ人の征服者が渡来した。ローマ人の半島征服は紀元前19年に完成し、700年間の支配が始まる。「イベリア」の名は、古代ギリシァ人が半島先住民を「イベレス」と呼んだ事に由来し、ローマ人はこの地をフェニキア語に由来するといわれる「ヒスパニア」と称した。これは「ウサギが多い国」という意味だといわれている。この「ヒスパニア」から「エスパーニャ」「イスパニア」「スペイン」等と呼ばれるようになったが、当時のローマ人達は属州としたイベリア半島全体を「ヒスパニア」と名付けたのであって、現在の「スペイン」に限って使っていたのではない。

イベリアを特徴付けているのは、何といっても711年に始まったイスラム教徒の半島侵入であり、イスラム支配地域は「アル・アンダルス」と呼ばれた。キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)は約800年の年月を要して、1492年のグラナダ王国崩壊によって漸く成し遂げられる。同年には、コロンブスがアメリカに到達し、6年後のヴァスコ・ダ・ガマによるインド到達と並んで、その後の大航海時代に於けるスペイン・ポルトガルのイベリア両王国優勢を決定的にした。これは、レコンキスタのエネルギーが新大陸へのコンキスタ(征服)に向けられた為と思われる。しかし、内政的には長年にわたる異教徒支配への反動から、反イスラム、反ユダヤ、反宗教改革の風潮が強く、異端審問制等による「キリスト教的一体制」に固執し続ける。16、17世紀のハプスブルク王朝、18世紀のブルボン王朝を経ても宗教的寛容さは根付かず、19世紀から20世紀にかけて、宗教と政治の分離を実現するべく混乱を引き起こした。

多くの紆余曲折を経た歴史と民族の流れは、ヨーロッパの中でも特異性のある文化を生み出し、他の国の人々から好奇の目で見られるようになったのである。

シャブリエ(1841〜1894)

狂詩曲「スペイン」

シャブリエは、フランス中央のクレルモン・フェランに程近いオーヴェルニュ地方、プュイ・ドゥ・ドーム県のアンベールに生まれた。幼少の頃からピアノの天才とみなされていたが、両親の説得によってパリで法律を学び、内務省に勤務しながら作曲を続けた。

詩人のヴェルレーヌと親交を結び、同じ通りに住んでいたマネを始め、モネ、セザンヌ、ルノワール、シスレー等の画家達とも親しく、彼らの油彩だけでも19点を収集していた。

1880年、ミュンヘンでワグナーの《トリスタンとイゾルデ》を聴いて、政府の職を退き、音楽に専念する事を決意する。実に40才での決断であった。シャブリエの個性は二面的で、示導動機手法を用いたオペラ《グウェンドリーヌ》では、献身的なワグネリアンであり、喜劇的な《嫌々ながら王にされ》では、陽気なフランス人のキャラクターがほとばしり出ている。シャブリエの明るい性格と、高雅で繊細な旋律性による透明な音楽は、フォーレ、ドビュッシー、サティ、ラヴェル、「6人組」等若い作曲家達に大きな影響を与えた。

狂詩曲《スペイン》は、1882年妻と共に4ヶ月過ごしたスペインの印象をもとに、翌1883年に作曲された。

Appartment Chabrier vécut

(写真6-1)シャブリエが住んでいた 23. rue Mosnier(現在はrue de Berneと呼ばれている)パリ8区のアパルトマン

ラロ(1823〜1892)

スペイン交響曲 ニ短調 作品21

先祖はピレネー山脈南側のスペイン東北部カタロニア地方出身であるが、ラロ自身はベルギーに近い北フランスのリールで生まれた。リールとパリのコンセルヴァトワールでヴァイオリンを学び、アルマンゴー弦楽四重奏団のヴィオラ奏者として演奏活動を続けていたので、作曲家として世に認められるのは遅かった。1871年にはサン=サーンス等と国民音楽協会の設立に携わり、自国の作品の紹介に務めた。

スペインの名ヴァイオリニストで、《チゴイネルワイゼン》や《カルメン幻想曲》の 作曲者としても知られるサラサーテと親しく交友し、彼に捧げられ初演された《ヴァイオリン協奏曲第1番》の成功に気を良くして、翌1873年に同じくサラサーテの為に作曲されたのが《スペイン交響曲》である。実際には「協奏曲」であるこの作品に、何故「交響曲」というタイトルが与えられたか判らないが、多分、ラロは協奏交響曲(Symphonie concertante)の様な曲をイメージして、ヴィオラとオーケストラのために書かれたベルリオーズの 《イタリアのハロルド》を思い浮かべていたのではないかと言われている。アレグロ・ノン・トロッポ、スケルツァンド、インテルメッツォ、アンダンテ、ロンドの5楽章から成る。

ラヴェル(1875〜1937)

ラヴェルの母はスペインのバスク地方の出身で、ラヴェルはピレネー山脈の北側、サン・ジャン=ドゥ=ルューズの隣りにある小さな漁村シブールで生まれた。

バスク地方とはイベリア半島北部、ピレネー山脈西端のフランス、スペイン国境に跨がって広がるバスク語を話す地域を示す。この地方は、日本の四国よりやや広く、約300万人の人が住む。バスク人については、他のヨーロッパ諸民族とは明らかに異なる独自性があり、謎に包まれている事柄が多い。例えば、外見上はスペイン人、フランス人と大きな相違は見られないが、血液型の分布を調べるとB型の割合が2%と極端に低く、Rhマイナスは30%と非常に高い。この特殊な現象が何に起因するのか解明されて居らず、バスク人の起源についても不明である。又、彼らが使うバスク語は、言語構造上、インド・ ヨーロッパ諸語の系統に全く当てはまらない。

この不思議な血が流れるラヴェルは、バスク語も解し、生後間もなく離れたシブールの漁村には成人後しばしば訪れて、故郷の村をこよなく愛した。現在ではサン・ジャン=ドゥ=ルューズとシブールでラヴェル音楽祭が開かれている。

道化師の朝の歌

自作のみならず、他作のピアノ曲までも管弦楽化することに意欲的であったラヴェルは、1905年に作曲した5曲からなるピアノのための組曲《鏡》から2曲をオーケストレーションしている。4曲目の《道化師の朝の歌》は1918年に編曲された。道化師の複雑な心理の明暗によってもたらされた交錯する表情は、スペイン風の強裂なリズムが支える宇宙の中で彩と翳に昇華されている。

スペイン狂詩曲

ラヴェルの最初の本格的なオーケストラ曲で1907年に作曲された。この年にはオペラ《スペインの時》も作曲されている。1908年3月15日にコロンヌの指揮で初演が行なわれ、大変な好評を得て《マラゲーニャ》は直ちにアンコールされた。全体は次の4曲で構成されている。

  1. 夜への前奏曲
  2. 反復される動機に叙情的な主題が重なり、曲の終わり近くには、2本のクラリネットによるカデンツと2本のバソンによるカデンツが聴かれる。

  3. マラゲーニャ
  4. リズミックで定型化された伴奏をバックに即興的な旋律が歌われるマラガ地方の民謡に続いて、憂愁なメロディーが表われ、夜の動機と共に突如消え去る。

  5. ハバネラ
  6. この曲のみ1895年にピアノ2台用に書かれた作品のオーケストラ編曲である。物憂いリズムと旋律がデリケートな色彩で表現される。

  7. 祭り
  8. 生き生きと輝く賑いに挟まれてノスタルジックな叙情が馨わしい、ラプソディックな3部形式の曲。

Plat - Ravel

(写真6-2)が《鏡》《スペイン狂詩曲》を作曲したパリ郊外の 16bis. rue Louis-Rouquier, Levallois-Perret にあったアパルトマンは建て替えられて、プレートだけが残っている

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